スタッフ紹介 - 戸井 仁美

私は、1988年2月15日、大阪府で戸井家の次女として生まれました。母の実家が大阪で、転勤で大阪にきていた父と母が出会い、姉と私が誕生しました。

私は母のお腹にいた頃暴れまくっていたそうで、あきらかに姉のときとは違う!!ということで、母はてっきり男の子だと思いこんでいたそうです。危うく「達也」という名前になるところでした・・・。生まれてきた私を見て、母は大慌て!急いで女の子の名前を考えたそうです。

それから3ヶ月ほどして、家族4人で岡山の父の実家に帰ってきました。

それから今まで、ずーっと岡山っ子です。



幼少期
小さい頃はとにかくおてんばで、母からすぐに離れてちょこまか動き回っていたそうです。なので、しょっちゅう迷子になっていました。自分から「迷子なんです!」と言って、母の呼び出しをしてもらったこともあります!ちゃっかりしていますよね(・_・;) 幼稚園の時にはセーラームーンが大流行!!みんなでセーラームーンごっこばかりしていました。 小学校では、バレーとバドミントンをしていました。学校が終わると夜バドミントン、土日はバレーという、毎日スポーツ漬けの日々を送っていて、当時は走ってばかりいました。 勉強もこの頃にはまだ好きで、成績はとてもよかったんです。でも私の頭のピークは小学5年生のときでした・・・。そのとき父に頑張ったご褒美だよ、とCDラジカセを買ってもらったことがすごく嬉しかったのを覚えています。



中学時代
中学校では、陸上部に入部しました。ずっとバレーとバドミントンをしていたので、周りのみんなには、「せっかく今まで頑張ったのにもったいない」と言われました。 私は小さい頃から姉妹で同じように習い事をしてきました。バレーとバドミントンも姉と同時に始めました。ですが!!私と姉の間に、バドミントンで大きな実力の差が開いてしまったのです・・・。私は中学に入る年は、姉がバドミントン部の3年生にいました。「戸井の妹が入ってくる!!」と私の知らないところでハードルが勝手にあがってしまっていたのです。姉は高校のときには国体に出るくらいの選手で、妹の私が言うのも変ですが、バドミントンをするときだけは誰よりも素早い動きで、私の憧れの存在でした。そんな選手の妹ということで、みなさん少し期待していたようです。

一方の私は、本当にバドミントンのセンスがなかったみたいで、なかなか上達しませんでした。だから、バドミントン部に入ったあと、姉と比べられるのがすごく嫌だったんです。バドミントン部に入らず陸上部に入部したのは、その他にもいろいろ理由はあったのですが、姉と比べられるのが嫌!それが最も大きな理由でした。 そうして他の部活も見てみようと思っていました。中学に入って仲良くなった友達が陸上部に入りたいのだと聞いて、一緒に見学に行きました。すると、陸上部の雰囲気がとても良かったんです。先輩たちがとても丁寧に教えてくださって、緊張もすごくほぐれました。そして、この部に入りたい!と思い、即入部を決めました。 その陸上部で、私は恩師と出会いました。顧問の出井先生です。定期テストの後には、成績順に並ばされたりと厳しい先生でしたが、心底生徒のことを考えてくれている先生でした。 競技種目は走り幅跳びをしていました。

この幅跳びがすっごくおもしろいんです。踏み切りで1cmでも出たらファールになってしまいます。風の向き・強さはもちろん、自分の体調とも相談して、助走の距離を決めます。陸上は、野球やサッカーなどの対戦スポーツとは違って、自分との戦いです。見ている人たちからすると、ゲーム性もなく「何がおもしろいの?」という感じですよね。でも、やってみると奥が深くて、すごく楽しいんですよ。 2年生の12月頃、県の強化選手に初めて選ばれました。とてもうれしかったのを覚えています。そして3年生のとき岡山市の大会で優勝しました。そのとき、出井先生に指導していただいて初めて、「よくやった!!!おめでとう!!!」と握手をしていただきました。陸上人生の中で1番嬉しい瞬間でした。


高校時代
高校は地元の西大寺高校の普通科に入学しました。 そこで今度は、バドミントン部に入部しました。なぜ陸上を続けなかったかというと・・・・

身長が全然のびなかったからです。149cmをキープです。なので、再びバドミントンをしてみることにしました。2年生の終わりに、練習中に足首の靭帯を痛めてしまい、しばらく松葉杖生活を送りました。そのときたまたま教室が学校の4階で毎朝けんけんで4階まで階段をのぼりました。そのときには友達のありがたみがよおおおおおおくわかりました。一緒にけんけんしてくれたり、荷物を持ってくれたり・・部活に出れない私を励ましてもくれました。今でもみんなには大感謝です。

ギブスがとれてからもちゃんと歩いたり、ましてや走ったり、バドミントンなんてできませんでした。マネージャーとして、練習に参加するようになりました。毎日もどかしくてしょうがありませんでした。引退試合にも出場できるかわからない状態でした。それならもうやめます。と先生に本気で相談もしました。でもそのとき友達に「みんなで一緒に引退しよう!もうちょっと頑張ろう。」と言われました。その言葉で、もう1回頑張ろう、みんなと一緒に引退がしたいと、心から思えました。それから少しずつ足を動かして、サポーターをつけて毎日練習をしました。そして引退試合・・今までで1番の成績を残すことができました。本当に本当に嬉しかったです。友達・・仲間って大切ですね!!



専門学校
高校卒業後、ベル歯科衛生専門学校に入学しました。私の知り合いに衛生士の人がいて、歯科衛生士という職業を知りました。実は姉も歯科衛生士をしています。みんな同じ、ベル歯科衛生専門学校卒業です。私も衛生士になろうと決めたとき、当然のようにベルに進学を決めました。

実際に入ってみると、とても忙しい毎日でした。特に2年生になり、臨床実習が始まってからは、初めての経験ばかりで、身体的にも、精神的にもつらい時期もありました。ですが、一緒に衛生士を目指している仲間と、泣いて笑って励ましあいながら頑張りました。ときには先生たちに泣きついたりもしました。先生たちは、「うん、うん、それはつらかったね。」と私の話をひたすら聞いてくださりました。特別なアドバイスをくださるでもないのですが、とにかく話を聞いてくれるのです。そして私は話したあとすごくすっきりして、また元気に実習に出ることができました。 私も後輩ができて、誰かの相談にのる立場になったときには、みんなが私に話をしたあと、すっきりしてくれる、先生たちのように聞き上手の人間になりたいなあと思っています。

いろいろ大変な毎日でしたが、とても充実した2年間でした。そしてとても大切な仲間を得ることができた2年間でもありました。

そして今はうめだ歯科クリニックの一員です。

うめだ歯科に就職を決めたきっかけですが、私は1年半くらいうめだ歯科で勉強をさせていただいていました。もちろんその勢い、流れでというのも大きかったのですが、初めての就職先は大事だから、よく考えて決めなさいと周りの人たちからアドバイスをいただいていたので、実習先を考えたり、友達の話を聞いてみたり、いろいろ私なりにリサーチをしてみました。それぞれの医院にはいろいろなよさがあり、また欠点もあります。自分にとって、1番必要なこと、重要視すべきことは何か、じっくり考えました。そして、自分にとって1番大切だと思ったことは、「自分が大きく成長できる場所」ということでした。そのことが1番だ!!と考えるようになってからは、うめだ歯科への就職を迷わず考えるようになりました。そして何より大きかったのは、今のスタッフの人たちです。この人たちと一緒に仕事がしたい!!と心から思える人たちでした。職場の人間、スタッフは、家族よりも長い時間を過ごす、いわば第二の家族です。私は素敵な家族の一員になれて幸せです。 私のモットーは、1番の笑顔です!!うめだ歯科にきてくださる人に幸せが届きますように、今日も笑顔でお待ちしております!!



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